仏教がなかなか正しく理解されない要因に空の理論の難解さがあります。実在の世界の中で生きている我々人間は、実体思想で物事を考える習慣(主観と客観)が身についておりますので、どうしても物事を有るとか無いといった見解で見たり考えたりしてしまいます。(実体思想)

空を解説している仏教学の権威ある先生方でさえ、空を実体思想(有るとか無いといった論法)で語ってしまってます

こちらは『唯識』の権威とされる横山 紘一先生の有名な著書『唯識の思想』で語られている文章の要点を抜粋し、7分程度に要約して紹介されている動画です。わたしもこの本は持っておりますが『唯識』というものを大変解り易く紹介されております。



しかし、残念なことに冒頭で横山先生は「有る無し」で空を紹介されておられます。

また、仏教学の第一人者であられた中村 元先生が解説された著書『竜樹』は、卓越した仏教の知識をもっておられた中村先生だからこそ顕すことが出来た一冊だったと思います。先生はこの著書の中で竜樹の中論の中心問題を「縁起の相依性(相互依存)」と述べておられるあたりは流石だなと感心させられますが、残念なことに空諦中諦を混同して誤って解説されています。それゆえに大事な〝中道〟の解釈が誤って広く世間に認識されてしまいました。(天台の三諦説は間違いだったという誤った認識

昨今のネットでの大乗非仏説に基づく大乗仏教批判にも深く関係している問題ですので、「中村先生の中道解釈の誤り」について少々意見させて頂きます。中村先生は、

非有非無の中道は空と同義である。『中論』においては空が縁起の意味であり、また縁起と中道とが同義であるから、さらに中道と空とは同一の意味である。

と自身の著書『竜種』の264ページに記されております。そして

 空=非有非無=中道=縁起

という構図をP.266で紹介されています。この主張は龍樹の空思想を継承するインドの中観派で注釈家の月称(チャンドラキールティ 600 - 650年)の説に基づいての先生のご主張となりますが、空と中道とを同等なものとして紹介しておられます。

 空=非有非無=縁起

ではありますが、〝=中道〟とはなりません

解り易く三界図で説明しますと、龍樹の二諦説は次のような世俗諦(俗諦)と勝義諦(真諦)の関係になります。
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般若経典』は仏の世界観(空観)を説いたもので〝天部〟が明かされただけで、天部の詳細までは説かれておりません。なので龍樹は、〝空=縁起〟(仏の世界観)を真諦として〝中道〟(仏道)としている訳です。言い換えれば、

 実在における真理=俗諦(仮諦)
 実体を空じることで顕れる真理=真諦(空諦)

の真俗の二諦説となります。のちに世親が龍樹の空理を理解して空観に入り天部を『唯識』として詳しく解き明かしていきます。

その唯識では、

 他に依存する存在形態(依他起性)
 仮構された存在形態(遍計所執性)
 完成された存在形態(円成実性)

の三性が説かれ、心が持っている三つの形態(状態)を「三性説」として論書『唯識二十論』を顕します。

そして中国の天台智顗が、心の状態を因として果として生じる〝世界観〟を止観で観じとる「仮観空観中観」の三観からなる三観義を立てお釈迦さまの三界唯心をひも解く円融三観を顕します。

中村先生が引用されているインドのチャンドラキールティの注釈(二諦説)では、

 空=非有非無=中道

とありますが、これは空の中に中を含めた空(=真諦)という意味になります。図で示しますとこのようになります。
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更に著書『竜種』の264ページの「非有非無の中道は空と同義である。」の文章ですが〝非有非〟は空ですが中道は〝非有非〟(有にあらず空にあらず)なので同義ではありません

 空=非有非
 中道=非有非

それに続く「また縁起と中道とが同義であるから、さらに中道と空とは同一の意味である。」の文章も誤りです。龍樹が『中論』で言っている

「我等は縁起せるものを空と説く。それは仮説(仮の名)であり、また中道である」

は、確かに

 縁起=空=中道

の構図となりますが、龍樹の時代における真理と智顗の時代における真理とでは、明かされた真理の深さが異なり、真理の内容自体が異なります。龍樹が言っている〝中道〟は真諦(第一義諦)としての中道(仏道)です。真の真理である「真如の世界」にあっては、意識は時間という概念からも離れますから、縁起は止まります。縁起が止まることで輪廻も止まり六道輪廻から解脱します。縁起が生じない真如の世界観(中観)における真理(中諦)が=縁起な訳ありません。

阿含経典しか解明されなかった時代の真理と、般若経典が解明された時代の真理と、三界唯心が解明された時代の真理とでは、明かされた真理の深さが異なる為、それぞれ真理は異なります。

 実体における真理=此縁性縁起=仮諦
 実体を空じた真理=相依性縁起=空諦
 概念から抜け出た真理=無為の法=中諦

人は〝言葉〟という〝概念〟を用いてモノを定義し分別し、実体として認識します。その実体の世界における真理が仮諦です。その言葉の概念から離れた世界における真理が空諦です。そして更に時間という概念からも離れた世界に意識が入ると、時間経緯や相互関係から起こる縁起が止まり、因位と果位とが同時に同体で顕れます。それが縁起が生じない無為の法仏教経典の最高位に位置する『法華経』で詳しく明かされた〝因果具時の法門〟です。

続く